天龍の滝場

都 誠一郎
霊学と実践【伝法と体系】
、滝行の作法、【水想観】【神人和楽】
、祝詞【大祓詞】
、お経文、【法華経】方便品、寿量品、般若心経、
、霊主体従
、禊祓、罪と穢れ
、鎮魂帰神法【鎮魂、帰神、皇法】
、帰神法、自感法、他感法、
、一霊四魂 三元八力の意味
、月輪観【真言密教】
、六神通【霊能】
、神道の死生観
、霊魂観【仏教、神道、ヒンズー教、キリスト教、神智学、】
、持息法【座禅法】ヨガ、曹洞宗、臨済宗、
、祓いと禊と振魂と伊吹【神道】滝行の時とお勤めの時
、言霊【内在言霊】から神仏に通じる言霊
滝行の作法
滝行の修行を行う場合は、一応、修行の為の儀礼作法をもって始めます。神仏習合が天竜大神の本源で、仏式の修行数珠を用意をしてもらいます。法華経の数珠もしくは真言宗の数珠を使用しています。滝行に入る時に腕に数珠を巻いて入ります。滝行に入る時は、女性は白衣の上下を着て、髪を括ってもらいます。男性は白のズボンで上は裸で大丈夫です。口を濯ぎ、手を洗います。準備完了。
古神道の水想感と滝行
ここからは、古神道の言う観想【観法】を行う。無心の境地で滝の流れるのを眼で見て観想をほぼ同時に行う。【現象を感じる】滝の流れを観法しながら目を通して心と身体で感じることが肝心です。【自感的】人は、同時に観て、聞いて、想い、感じる感覚を研ぎ澄ませること、六根清浄を透明な気持に誘うことを、あくまで意識的にすることが大事です。ここでの観法は自己の身体、意識全体を滝を見ながら浄化するように心で念じるのです。【全て意識的と心を同時に心身脱落】この山の清い滝で私共を祓いたまえ清たまえと心で感じるだけが大切です。いよいよ滝行に入る。 【全て、全的な感覚を同時に感じる】
【神代は今にあり】
仏式のお経文【懺悔文、開経偈】
滝行に於いての最初の段階で、先ず、般若心経を覚えて頂きます。般若心経は神仏のお経文として最高峰にある経文で、呪術的【陀羅尼】のお経文で祈りも経文でもあり現実成就のお経文であります。懺悔文、開経偈も覚えて頂きます。古神道の滝行はご先祖様を成仏する為に、滝行に於いて仏式のお経文を唱える事から始める。成仏されていない代々のご先祖を滝行に御身を捧げてお滝に入り、念じる行為が、先祖霊様が喜んで自覚的に、霊的に浄化さていきます。先祖様と自分も霊的に同時に浄化されていきます。滝修行は、神道的、惟神の根幹をなすものは、鎮魂【ミタマ】であると言って過言ではありません。その鎮魂と表裏一体をなす、禊祓いについて、改めて見ていくことにしましょう。
神人和楽【禊祓い】
惟神の霊【ミチ】の根源的な思想は、【霊を以って霊に成す】清明正直。【禊祓いに始まって禊祓いに終わる。】禊祓いとは、汚れを去って清浄になることですが、その究極は神の分霊である本来の自己に還る、つまり直霊を顕現し、晴々と、永遠の生命を嬉しい、楽しいで、生き通すことです。【清明正直】とは汚いものはきれいに掃除し、曲がっているものは、真っ直ぐに直すということが、【禊祓い】の在り方です。【禊祓い】の祓いの原義は、【晴らし合う】【晴れ合う】の複合語と言われており、本来の晴れやかな、美しい姿に戻す。そして、内なる神を顕現していく。これが禊祓いの奥義であります。そこにはありのままの自分を恐れない勇気が求められ、ありのままの自分をそれこそ、そのまま見つめていくわけです。自分の中の真っ直ぐでない心、歪んだ心を自覚し、自分を欺かず、浄化していく工夫を行っていきます。そこから本来の光である自分が、少しずつ顕現されてくるのです。祓いの奥義は、【問わし祓い】ともいわれております。大祓詞の中に【神問わしに問わし給ひ】とあるように、自己と何度も対話し、和解していくのです。これが【神和し】であります。禍事も、穢れも、あるがままの自分であり、その自分を否定することからは何も生まれません。新たな争いを自己の中で、そして外側の世界に生じさせるだけになります。禍事も、穢れも、その禍事、穢れのあるから、善事【ヨゴト】の中から現れるのである。
霊主体従【れいしゅたいじゅう】
神道では、霊主体従の考え方を重視しています。霊とは目に見えない存在で、想いの世界です。体は、人間の身体的な全体的な世界で、見たり、感じたり、五感で捉える世界であり、物質世界のことを指します。霊とは見えない世界で、私達の想いの世界で、目に見える体の世界、物質世界は従である。という考えであります。霊が主体と考えるので、心や思いを大事にします。気掛かりがあれば、常に禊祓いをするというものも、霊の世界がこの物質世界に先立つものであり、原因であるからです。実は霊が先ず想念し、それが限界に具現化されていく一連のプロセスのことで、この世界は、神、生命、私たちの思いによって成り立っています。目の前の現実をみて、病んだり、悩んだり、恨んだり、僻んだり、妬んだりするのも【気掛かりが】です。【従】である【体】の世界に惑わされずに、常に【霊】の世界を祓い清める事を大事にするのです。原因は霊、つまり想いの世界にある。つまり心にあり、その結果が物体、肉体、現象界に顕れる。だからこそ結果である物質世界よりも、【霊】、想いの世界を主となして大事にしょうという考え方が【霊主体従】です。【体主霊従】は結果を重んじて、目に見えない想いやプロセスは枝葉末節だとして尊重しない態度です。現代社会の根本的な考え方です。結果だけ良ければそれで良いという考え方です。目の前の現象は、これまでの想いやプロセスによる結果です。今行なっているプロセス。目の前の現象に惑わさせる事なく、栄える未来のために想いを清めて行動していく。こらが霊主体従であり、神ながらの生き方である。常に何の為にを、その初めの想いを大切にしたいものです。
禊祓いと罪と穢れ
惟神の禊祓いと、穢れという概念は、厳密な意味の罪障【過去世からの持ち越し】の考え方とは相違点があるかのように思われがちですが、仏教的な観点からの判断は控えおきます。我が国の神道で穢れをよく言われるこの言葉の意味は、【穢れ】は気枯れのことで、生命エネルギーである【気】が枯れたり、離れたりする状態である。【気離れ】ということです。まさに気が離れ、心ここにあらずの状態のことです。生きていくのには何かあるのは当たり前で、心が動揺したり、驚き、意気消沈し、不安や心配で魂はあっちこっち飛び散ってしまいます。この状況では本来の生命の在り方にとってはある意味では不快なことです。自分の一部がどこかに行ってしまっている。そこで【禊ぎ】